Prologue

気持ちの良い朝。ガーデンは今だ寝静まったままで、しんとした空気が漂っている。
その日何となく早く目の醒めた僕は、そっと部屋を抜け出して2階デッキに立っていた。ここからはバラムの街と海がよく見える。水平線の向こうに顔を出し始めた太陽はバラムの空を曙色に染め上げて、日々の雑多な事柄を忘れさせてくれる。

背後で扉の開閉する音がした。景色に見とれていた僕は一瞬びくりとし、それから音のした方へ顔を向けた。
「シュウ?」
「あ、おはようアーヴァイン。随分早いのね」
伸びをしながら言う彼女にそっちこそ、と返して隣を空けてやる。
「まだまだやらなきゃいけないことが山のように在るからね。おちおち寝ていられないの」
「手伝おうか?」
「ん、ありがと。でも良いわ」
シュウは小さくウィンクすると、今の所は何とかなっているからと笑ってみせた。
「でも、どうしようもなくなったらお願い」

太陽は今やすっかり海から出ていた。辺りの空も鮮やかなスカイブルーに変じつつあり、ガーデンのそこここから人々の活動の気配が感じられる。
彼女は、シュウは溜息をひとつ吐いて、今日もまた仕事かと大仰に肩を竦めた。そろそろ行くからとデッキの縁から二、三歩下がり、くるりと踵を返す。その後ろ姿を見送って、僕はまた街へと視線を落とした。と、ほぼ同時に彼女がそう言えばと声を上げる。
「そう言えばかなり意外だったわね~」
「何が?」
振返ってシュウを見ると、彼女は楽しそうな、けれどどこか意地悪な笑みを浮かべてこちらを見上げていた。
「こんなこと言うともあれかもしれないんだけど、正直ただのナンパ君だと思っていたのよねぇ…それが何時からだったかぴったり止まっちゃってさ」
「…ま、色々とね」
苦笑して目を伏せた。とりあえず彼女に話の続きを促す。
シュウはまた二、三歩近付いて来て僕の顔を下から覗き込むと、先の意地の悪い笑顔を見せつつ言った。
「で、どう。いけそう?」
「は?」
「今ならガーデンも休暇中だし、丁度良い時期なんじゃないかなぁ? それに個人的な気持ちとしてあの子のことあんまり好きじゃないし、頑張って欲しいかな~なんて思ってたりして」
くすくす笑い、思わせぶりな様子で言葉を続ける。
「おねーさんは反対なんてしないわよ? 良いんじゃない、男でも」
「!!」
『おねーさん』シュウは年上の余裕でふふんと胸を反らせてみせた。

「まぁでも相手が彼じゃね…そう簡単に落ちないとは思うけどね」
「……誰に聞いた?」
「ううん、誰にも。仕事の合間に観察してて何となく解った」
人間観察は只の趣味だけど、と笑って付け足す。それから腕時計をちらと見、急に血相を変えて飛び上がった。
「いっけない、もうこんな時間!? ま~たキスティスに嫌味言われるわ!」
こちらに声を出させる間も与えずに、あっさり彼女は行ってしまった。デッキに残されたのは金魚みたいに口をパクパクさせて突っ立っている僕一人――
しばらくそのまま動けなかった。けれど、その内何とか立ち直ることに成功した僕は、顔を上げて空を仰いだ。
「何だかな~」
誰にと言うわけでもなく一人呟く。

僕ってそんなに露骨だったっけ…?

気持ちが焦り過ぎているのかもしれない。だって、これは本気だから。それも多分…生まれて此の方初めての。

「シュウも応援してくれていることだし、頑張ってみますか!」
よし、と自分に気合を入れて手を挙げ掛けた、その瞬間…

ぐうぅぅぅ~~…

間抜けな音が身体中に響いた。そう言えばまだ何も食べていなかった。そのことに気が付いたら何だか無性に腹が空いてきて、入れた気合は何処へやら。僕はあははと力無く苦笑して、まずは腹ごしらえと食堂へ向かうことにした。

その時の僕は、この後に始まる出来事を未だ予想すらしていない――